日本の公立学校の働き方改革

魯迅の故郷の一節。

もともと地上に道はない。歩く人が多くなればそれが道になるのだ。

世の中のほとんどの現象にあてはまる真理だろう。

ところが、日本の公立学校の働き方改革はなかなかそうはいかない。

優秀な若い先生の中には、公立学校の先生方の働き方に嫌気がさし、自分の幸せ追求が子どもへの教育に好影響を与えるのだと気づきはじめている先生が多い。

それは間違いではないが、こう思う先生が増えて働き方が進んでいくのか?これに関しては魯迅の主張が成り立たない。今のままでは、そういう先生がある一定の数で止まってしまいそれ以上は増えないからだ。

土日にクラブをしなければどれだけ余暇を充実させることができるかはわかってはいる。でもできる人とできない人がいるのだ(その理由にはいろいろある…)。

勤務時間が過ぎても生徒指導や保護者対応が山積である。勤務時間に切り上げて帰宅すれば翌日のパフォーマンスが高まることは百も承知である。でもできる人とできない人とがいるのだ。

誰かがやるから学校が回っているという厳然たる事実がある。やらねば回らないのだ。

だからうまく余暇をつくることができる強い意志をもつ先生方は、公立学校では同じ意志を持つ人がある一定のところで増えないことを知る。そして公立で働き方改革を訴えることは無力だと思い、罪悪感を封印して自分だけが割り切って公立で働き続けるか、さもなくば公立を去って私立の教師になるかフリーランスの道を選んでいくのである。

しかし、私たちは本当に無力なのか。

公立学校の先生方よ、立ち上がれ。

もし、学校関係者以外の世の中の人々が、「学校の先生方にもっと余暇を楽しんでもらう余裕をもってもらうことが、自分たちの子どもたちに好影響をもたらすのだ。」という考えが広がっていけば、それは魯迅の主張どおり、きっと日本の公立学校の働き方改革の実現につながっていくことだろう。私たちは学校の外に働きかけていかなければならないのだ。

そして学校の内側に対しては、一部の先生方だけが割り切って余暇の幸せを享受している状態から抜け出す方法を考えるしかないのだ。校内で生徒指導対応やクラブ指導を当番制で交代でおこなったり、複数担任制にしたり、年休取得を平均化させたりなど。

余暇の素晴らしい使い方を知った先生方は、それができない先生に時には交代してあげてほしい。土日のクラブを時には代わってあげてほしい。自分の年休を少しがまんしてでも、年休をとらない(とれない)先生をなんとかたまには休ませてあげてほしい。

公立学校はチームで生き抜くしかないのだ。