思考停止にならないこと

スマホの学校への持ち込みを自由にすべきではありませんか。」
ある先生が提案してくれた。
今までは「あり得ないこと」として一蹴してきた問いである。でも橋本前大阪市長が「学校への携帯電話の持ち込みは原則禁止」とうたったあの頃とはすでに時代が変わっている。そもそもスマホ・携帯に関わる生徒指導上の課題は、学校への持ち込みを禁止したところで解消する状況ではない。この提案、本当に思考停止のままで良いのだろうか。
授業のあり方は確実にかわる。大学入試が変わらなければ義務教育の内容は変わるはずがないと決め込んでいたが、ついにその大学入試制度にもメスが入る。調べたらわかることはできるだけ便利な手段を使って、瞬時に回答しなくてはならなくなる。答えのない問いにこそ思考の時間を費やし、他者と協力しあって答えを導いていくことがこれからは求められる。世の中は確実にこうなる。AIとの共存である。
そう考えると、学校でもスマホタブレットの便利な使い方を学ぶことがとても大切になってくるのではないか。もしあなたが私立中学校の校長だったら、来年度からスマホの持ち込みを自由にし、授業の中で使用させることを奨励するべきかもしれない。私立中学校なら、スマホを持つことを入学の要件とすることができるのだから。
公立は悲しいことに今すぐにはそうはいかない。所持していない(できない)生徒や、中学生時代には子どもにスマホ・携帯を持たせないという考え方の保護者への配慮が絶対に必要である。一人の思いを決して無視しないのが公立の命題である。
公立での実施が難しいのはそれだけではない。公立学校にはそもそも「簡単には変わらない」という文化がある。今の学校は戦前の反省に立ち、教育と政治の分離を徹底してきた。この精神によって、平和教育をベースにしたすばらしい教育理念が守られてきた。しかし、その反面、政治の横やりだけでなく、世の中の流れも簡単には受け付けないという学校文化ができあがってしまった。政治家や学者が教育に対して提言すると、先生方はまず目くじらを立てて反対するけれど、世の中の流れから考えると、案外まともな提言だったりすることもあるのではないか。
戦後の日本は大きく変わった。その中で最初は教育の分野が最先端だった。しかし、70年の間に学校はすっかり取り残されてしまった。昔は学校にだけピアノがあったが、今は学校にだけWIFIが飛んでいない。
スマホの持ち込みの自由化の提言。このことも「思考停止」になってしまうことが危険だと思う。すぐに変わらなくても、公立学校でできることは何か、もし政治家や学者から同じような提言があったらどう反応するか、このことは頭の片隅に置いておく必要がある。(すでに論じている学者も多い)
教科センター方式はあくまでも方式。大事なのはどんな教育理念をもってどんな学校を創りたいか。いずれにせよ私立学校には負けたくない。